【 仲人山田が語る再婚して良かった事 】
私の経験談になりますが、再婚して良かった事についてお話したいと思います。
再婚して良かった!と、思う事は沢山ありますが、今回は心境の変化についてを説明します。
同じ様な経験のある方に共感して頂けると幸いです。
【 もくじ 】
・ 別居
・ やり直すと決めて
・ 離婚の決心
・ 再婚して良かった事
別居
離婚の原因は様々ですが、私の場合は夫の女性問題と経済的問題でした。
女性問題は、私が26歳の妊娠している時におきました。
前夫は28歳。今考えるとお互い若かったなあと思います。
当時、前夫はサラリーマンでシステムエンジニアでした。
真直ぐな人で仕事も手を抜かず一生懸命頑張っていました。
子供が出来てからも毎日残業で帰宅は毎日23時過ぎ。土曜日も日曜日も休日出勤の連続でした。
子供が生まれてからも、前夫の仕事は相変わらずで休日を一緒に過ごすのはおろか、食事すら一緒には出来ませんでした。
私は寂しかったですが、仕事だから仕方ないと自分に言い聞かせ、前夫を100%信じていました。
ところが、前夫には交際している女性が居たのです。
その女性は、前夫の同僚で同じ職場にいた人でした。
結婚して退職し、旦那さんの実家の敷地に新居を建てて住んでいると前夫に聞いたことが有る人だったのです。
前夫は相談に乗っているうちに情が移った様でした。
ある日突然、その女性と旦那さんが訪ねてきました。
聞けば、その夫婦には子供はおらず、奥さんは旦那さんの実家と折り合いが悪かった為離婚を切り出したそうです。もめた様で言い合いになる中、前夫と交際している事を旦那さんに話してしまったと言うのです。
旦那さんは怒り狂って、私にこの事を知っているかと聞いてきました。
私にしても寝耳に水です。
頭が呆然となり、自分の身に何が起きているか実感がわきませんでした。
その時の感情は今でもはっきりと覚えています。
そちらは子供がいないから簡単に分かれられる。でも、私たちには生まれたばかりの子供がいる。
簡単には答えは出ませんでした。
それから、色々なことがあり前夫は仕事を辞め、両親の住む茨木県に移り住む事になり、仕事は親せきが経営する学習塾の講師をする事になりました。
私と子供はそのまま自宅に残り、実家を頼りながら生活する事になりました。
私たちは3年間別居生活をする事になったのです。
やり直すと決めて
別居生活から3年が経ち、娘は3歳になっていました。
娘を保育園に預け、私はアルバイトをしながら生活していました。
前夫は女性と分かれ茨木で生活していましたが、今後については前夫も私も答えが出せずにいました。
そんなある日、私が体調を崩しました。
頭痛と微熱が続いたので最初は軽い風邪だと思っていました。クリニックを受診しましたが、やはり風邪と診断され処方された風邪薬を服用しました。しかし、一向に症状は回復せず、頭痛が日増しにひどくなりとうとう目が開きづらくなったのです。しかも、吐き気も出てきて薬も飲めない状態になりました。
夜中に耐えられなくなり、救急車で病院に搬送されました。
検査の結果『髄膜炎』と診断され、即入院を余儀なくされました。
何故、髄膜炎になったのか原因は分かりませんが、恐らくストレスと疲労がたまり免疫が下がったせいの様でした。
私がそんな状態だと妹と従妹が前夫に連絡したのです。
前夫は病院に駆けつけました。
前夫は涙ながらに謝罪し、やり直したい。茨木に一緒に来て欲しいと初めて口にしました。
私はとても複雑でしたが、子供の為にも一度はやり直さなければと茨木に行く事を承諾したのです。
離婚の決心
茨木での生活は初めのうちは前夫の仕事も順調で、マイホームも購入しました。私は娘の小学校入学を機にパートに出る様になりました。娘も問題なく成長し、人並みの生活が出来る様になっていました。
けれど、前夫の仕事に陰りが見え始めたのです。
茨木でも相当田舎の地域でしたから、親せきが学習塾を経営し始めた頃は競争相手もおらず順調でした。幾つも教室を開設し、生徒数も増え続けました。
ところが、田舎と言えど段々都会の大きな塾が進出し始めたのです。
やがて、生徒は激減。塾を縮小しなくては経営が立ち行かなくなりました。
私は前夫に転職を勧めました。
例え今より給料が減っても安定した生活がしたかったのです。
しかし、夫は頑として聞き入れてはくれませんでした。
経営は悪化をたどる一方でした。
そして、とうとう倒産。経営者である親せきは自己破産となってしまいました。
親せきから、退職金代わりに前夫が以前から教えていた教室をのれん分けされました。赤字続きの教室を貰っても大変になるだけだから貰わない方が良いと私は何度も前夫に言いましたが、それも聞き入れてはくれませんでした。
そんなある日、私名義の封書が届きました。
開封すると、何と私のカードのキャッシング状況の通知だったのです。
驚きましたが、どう考えても私はキャッシングの記憶はありません。
まさかと思い、前夫に確認すると「ごめん」と、一言返ってきました。
怒りを抑えながら事情を聴くと、塾の支払いでどうしても入用だったと言うのです。
今回だけは許すから、二度と人のカードを黙って使わないようにと約束させました。そして、私がすべて返済したのです。
しかし、あの封書が再び届いたのです。
もう何も言うことはありません。裏切られたと心底傷つきました。
「嘘つき」その言葉だけが頭に響いていました。それは、15年前の女性問題の時と同じでした。
もう限界だ。これ以上私にやれることは無いし、やる必要も無い。
自然とそう思えました。
幸い娘の転校の目途も付き、離婚しない理由は何もありませんでした。
再出発
娘連れ実家に戻った私に父は「いつまでも守ってやれない。だから、2年で自立しろ。」と、言われました。冷たいと当時は思いましたが、父の親心だと今は理解できますし、感謝しています。
それから私は長く続けられる仕事を必死で探しました。
幸い事務経験が長かった為、正社員で雇ってくれる会社は幾つかありました。
その中から車で通勤の出来る会社を選び、一生懸命働きました。
とにかく娘を育て上げ、自立しなければとの思いから頑張りました。
娘も大学生になり、仕事にも慣れて来た頃、ある事がきっかけで婚活してみようと思ったのです。
前夫とは7年交際した末に結婚したのでお見合いの経験が無く、最初は暇つぶし程度の軽い気持ちで相談所に入会したのです。
何人かとお見合いをさせて頂く中、女性として扱ってくださる事に感動しました。
妻として母として生きてきて、もう何年も女性としてなど扱われていなかったから気恥ずかしくもあり嬉しい気持ちにもなりました。
そして、初めは遊び半分で始めた婚活でしたが、お見合いを繰り返していくうちにいつしか本気になっていました。
数人の方とお会いした後、夫と出会いました。
夫との交際は順調でお見合いから3か月で成婚退会。
翌月には入籍を済ませ、娘も正式に養子縁組。
主人と義父と私と娘の4人の生活が始まりました。
もちろん、色々揉める事もありましたが一緒に暮らして良かったと心から思っています。
あれから16年が経ち、義父が亡くなり娘が嫁ぎ、今は主人と穏やかな2人暮らしです。
再婚して良かった事
前夫の浮気や借金問題は、夫と再婚するまでは忘れたくても忘れらずに居ました。
常に思い出す訳ではありませんが、ふとした時に思い出し、あの裏切られた時の絶望感が蘇るのです。
絶望感の後には「なんで私がこんな思いをさせられるの?」と、怒りの気持ちも湧いてきます。
怒りは負のエネルギーですから、苦しく疲れます。
思い出すという事は、当時にひき戻されてしまうのです。
時が過ぎ、周りの人たちは記憶が薄れゆくのに自分だけが当時から前に進めていない。
進みたいのに進めず立ち止まったまま。それが苦しく辛いのです。
ところが、夫と再婚してからは思い出さなくなりました。
時々、思い出しても前のような憎しみの感情は湧かなくなったのです。
今の主人との生活は穏やかで幸せです。
幸せを感じられるようになり、前夫を許すことが出来たのだと思います。
再婚するまでは憎しみの感情に縛られていて苦しかったのです。
私が再婚して一番良かった事は、憎しみの感情から解き放され、自由になった事です。
もし、貴女が憎しみに縛られているのなら再婚をお勧めします。
自分が幸せになれば必ず自由になれますから。
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